第一図 七~八世紀 卜部・占部氏分布図
第二図 卜甲・卜骨遺跡分布
卜骨は、弥生時代~古墳時代初頭
北緯34度30分線上の都を調べていたら、最後に「卜」について知りたくなりました。
中国古代の都、日本の古代の都が北緯34度30分線上にあり、かつその延長線上に、伊勢神宮、並びに伊古奈比咩命神社に代表される式内社の多い伊豆があります。西をみるとその34度30分線上には、対馬があります。これらは、卜部氏それと関連する「亀卜」が関係しているようです。古代に関係した、書物文献はあまりにも多くすべてを見ることは出来ないので、以下の本から最大公約数的なところを探していきます。

長崎県史   「第三節 島々の亀卜と神々p25-36」 長崎県史編集委員会/編  / 吉川弘文館  1980
平野博之 「対馬・壱岐卜部氏について」 (古代文化 17-3) 1966
横田健一 「中臣氏と卜部」 「日本書紀研究」 塙書房 単行本 1971
大江 篤  「怪異と亀卜」 「亀卜」 臨川書店 2006年 単行本 東アジア恠異学会 (編 )
笹生 衛  「考古資料から見た古代の亀卜・卜甲と卜部」 「亀卜」 臨川書店 2006年 単行本 東アジア恠異学会 (編 )
永留 久恵 「古代日本と対馬」  単行本 大和書房  2001
永留 久恵 「海童と天童」 単行本 大和書房 2001
永留 久恵 「海人と天神」 単行本 白水社 1988年
椿 実 「壱岐・対馬の亀卜と新嘗」 新嘗の研究No.3 学生社 1988


永留 久恵 海童と天童対馬からみた日本の神々」 大和書房 2001

第四章 「日本の神道と対馬の古俗」に、対馬から畿内に遷った神々が述べられていますのでそれを下の表にしました。
対馬国畿内
神社名郡名備考神社名国名備考
高御魂神社下県郡式内社 高御産日神 宮中式内社 
目原坐高御魂神社 大和国式内社 
天神多久頭多麻神社上県郡式内社 石園座多久虫玉神社大和国式内社 
多久頭神社下県郡式内社 
神御魂神社 上県郡俗称女房神神産日神宮中       式内社 
太祝詞神社下県郡式内社 太詔戸命神 左京式内社 
太祝詞神社大和国式内社 
阿麻弖留神社下県郡式内社 他田天照御魂神社大和国式内社 
鏡作坐天照御魂社 大和国式内社 
木嶋坐天照御魂社大和国式内社 
その他、対馬には、式内社敷島神社もあります。
同氏「海人と天神P373」に対馬の豆酘と佐護に多久頭魂神が祭られ、「豆酘には高御魂(たかみむすび)に対して、佐護に神御魂(かみむすび)」が祭られているのは偶然でないとし、天神多久頭神社は佐護というところにあり、多久頭魂は、神御魂(女房神)の御子神であるとしています。そして、対馬と畿内に同じ名前を持つ神社が数多く見受けられることから、紀の顕宗天皇三年「日神、著人謂阿閉臣事代曰「以磐余田、獻我祖高皇産靈。」とあるように、両所は密接な関係があったことがわかるとしています。
亀卜は、佐護と豆酘で明治四年まで続けられ、豆酘にいまも国指定の無形民俗文化財として残されています。古くは、対馬の十郷でそれが行われたらしいとかかれています。
永留は同書で、「日本列島を統治したヤマト朝廷が、その王権儀礼を整えるに当たり、中華文化の祭祀と儀礼をいちはやく受容していた対馬・壱岐の古俗を召喚したのではないか」と述べています。

長崎県史 「第三節 島々の亀卜と神々」

「卜」は、古く鹿卜が行われていたが、のちに亀卜への移行した、その理由として割れ目がよみやすいことをあげています。その占い方法が、亀卜にかわるとまもなく対馬・壱岐の亀卜が中央に進出するようになります。紀顕宗天皇三年の記事がそれで、顕宗天皇は、雄略天皇の次の次の天皇ということになっています。雄略天皇は、中国の宋書倭国伝に出てくる倭王武に比定され、このとき大和朝廷の全国統一がほぼ完成されたとし、大和朝廷が任那に派遣した使いが壱岐・対馬を通過した際、現地での神託があり、その使いがそれを朝廷に取り次いだことにより高皇産霊神が壱岐・対馬から中央に遷祠されるにはふさわしい時期であるとしています。また、神祇官は、朝廷並びに日本全国の神祇祭祀を束ねる重要な官庁で、この中央官庁に、壱岐対馬の卜部氏が占める意義は大きいとして 天地開闢の神の、対馬・壱岐から移祠は重要であるとしています。
対馬の卜部が中臣の家系を称するようになったのは、朝廷の神祇官に出仕した卜部が、自家に祀っている祖神を、律令機構の藤原一門の独裁体制を知って、自家の系図を中臣氏に結びつけたもので、本来は在地の豪族の出自であろうとされるとしています。

平野博之「対馬・壱岐卜部氏について」 (古代文化 17-3,1966)

ここでは、「卜部」は伴部の一つとしています。
平野博之は、三世紀末には広く鹿卜が行われていた、そして、亀卜の伝来は四から五世紀頃と考えています。そこで、何故伊豆の卜部が対馬・壱岐とともに神祇官の伴部になっているかという疑問を呈しています。
彼は、それについて、八-九世紀の史料に基づいた卜部・占部氏の分布を見て、文献が少ないうえ、また時代も異なるものであるが、西国グループに卜部、東国グループに占部という分布の関係が見られ、東国占部は、西国卜部に先行する時期に設定されたウラ部の遺制と解釈できるのではないかとしています。

インターネットなどという便利なもののない時代にこれだけのものを探すのは大変だったことでしょう。その論文にある表を中心にそれに少し加えたものを一覧表として、下に上げました。第一図は、それを概略の位置で示したものです。なお、ウィキペディアでは、「占部」「卜部」を区別していないものが多く見られます。
上に掲げた第一図の解釈としては、西国・東国グループというより、九州(壱岐対馬を含む)と本州という方が良いのかもしれません。 平城京から出土した木簡に、「卜部」と名前のある安房国からの調のものが二枚あります。占部氏の占める地域の中で、房総半島先端の地からのこれらは、なかなか興味深いものです(奈良文化財研究所 木簡データベース )
第二図は、卜甲・卜骨の遺跡の分布を示したものです。もとの資料は、卜甲については、笹生 衛「考古資料から見た古代の亀卜・卜甲とと卜部」東アジア恠異学会編 臨川書店 2006 単行本「亀卜」)、卜骨遺跡の分布は 、國分 篤志「弥生時代~古墳時代初頭の卜骨 -その系譜と消長をめぐって-」千葉大学学術成果リポジトリ)です。後者は、題に示されているように「弥生時代~古墳時代初頭」です。
遺物の分布図をどう解釈するか難しいところです。未発見のもの、その遺物が特殊な条件のもとにしか保存されない場合もあるので、単純に解釈することは出来ません。
奈良文化財研究所の遺跡データベースで、検索文字「卜骨」とすると、23件に見つかります。それらは、上記の國分篤志の論文に含まれるものもありますし、含まれないものもあります。含まれないものの代表的なものに、東北地方の「山王遺跡宮城県多賀城市)」、「市川橋遺跡(宮城県多賀城市高崎2丁目)」、「里浜貝塚(宮城県東松島市宮戸)」があります(なお、神澤勇一「日本の卜骨」考古学ジャーナル281,1987 によると宮城県のものに,二遺跡地をあげ、時代をいずれも奈良としている)國分篤志は、時代が新しいので外したのかもしれません。これは、寧楽遺文にある 陸奥占部(六人)に対応する遺跡でしょう。
上記の第一図、第二図 卜甲・卜骨遺跡分布を見てみると、データ数は少ないのですが、卜部氏と卜甲の遺跡の分布に一致が見られます。一つは、対馬・壱岐・北九州のグループと、伊豆・三浦・房総半島のグループです。
対馬・壱岐・北九州の卜部・卜甲遺跡の分布が大陸からの影響であることは、おおいに考えられます。三浦半島にある卜甲遺跡は、笹生 衛によると、六世紀~七世紀のものとされ、比較的新しい時代のもののようです(神澤勇一は、先にあげた論考の中で「アカウミガメ」の出土例の時代を古墳後期から奈良時代としている)。
第二図「卜甲・卜骨遺跡分布」を見ていると面白いことがわかります。殆どが海岸沿い(遺物の保存に適した場所が多い可能性大であるが)で、例外は、大和・信濃・上野国のものです。大和国は、山一つ超えれば河内国ですから、海沿いといってよいでしょう。信濃・上野は東山道に属し、古くから中央の影響があったところです。この図に卜甲・卜骨遺跡分布が、瀬戸内海、畿内・伊勢尾張そして太平洋岸沿いに駿河・相模・安房・上総と、関東までと可視化されます。いまは、地理情報システムが発達し、フリーソフトで簡単に分布図を作ることが出来ます。分布図は、「データの可視化」ないし「見える化」ということが出来ます。
なお、千葉県船橋市印内の印内台遺跡にウミガメの甲の遺物があり、大江 篤は「怪異と亀卜」 「亀卜」 臨川書店 2006年 単行本 東アジア恠異学会 (編 )のなかで 「亀卜」 は、「ウミガメが入手しがたい東京湾の奥にも」と書いてますが、埼玉県蓮田市の縄文時代の黒浜貝塚からは、ウミガメが見つかっています(蓮田市HP)。

 三代実録に、「卜部宿禰平麻呂」とあり、彼は伊豆国の人のようです。大江 篤は上記論文で、彼について、業基、真雄、平麻呂と改名するがそのいずれかの時点で、占部から卜部に改めたい違いないとしています
下に、その「占部業基・卜部眞雄・卜部平麻呂」と、それに関係する「占部雄貞・卜部雄貞」「卜部是雄・伊伎是雄(本姓卜部)」に関する文徳実録、三代実録の記事を拾ってみました。

占部業基卜部眞雄卜部平麻呂
・文徳実録 嘉祥三(850)年九月庚子 「神祇權少祐正六位上占部業基向尾張大神社。告以賀瑞之由。」
・文徳実録 齊衡三(856)年九月庚戌 「宮主外從五位下卜部雄貞。神祇少祐正六位上業基等。賜姓占部宿禰」
・文徳実録 天安元(857)年正月    「占部宿禰業基等外從五位下。」
・文徳実録 天安二(858)年三月己巳 「外從五位下占部宿禰業基爲神祇權大祐。」
・文徳実録 天安二(858)年七月丙子 「神祇權大祐外從五位下占部宿禰業基兼爲宮主。」
・三代実録 貞觀八(866)年二月十三日己未 「外從五位下行神祇大祐卜部宿禰眞雄爲參河權介。」
・三代実録 貞觀十(868)年正月七日壬寅 外從五位下行參河權介卜部宿禰眞雄。」
・三代実録 元慶五(881)年十二月五日己卯 「卜部宿禰平麻呂從五位下行丹波介卜部宿禰平麻呂卒。平麻呂者、伊豆國人也。幼而習亀卜之道、爲神祇官之卜部。揚火作亀、決義疑多効。承和之初、遣使聘唐。平麻呂以善卜術、備於使下。使還之後、爲神祇大史、嘉祥三年、転少祐。齊衡四年授外從五位下、天安二年拝權大祐、兼爲宮主。貞觀八年遷三河權介、十年授從五位下、累歴備後丹波介。卒時年七十五。」


尾張大神社は、式内社(名神大社)太神社で、現在の愛知県一宮市大和町於保にある太神社でしょう。また、貞觀八(866)の記事に、卜部宿禰眞雄爲參河權介とありますから、尾張、参河に関係にある人のようです。最終的には、「從五位下行丹波介卜部宿禰平麻呂」となって、伊豆国の「卜部」の祖となったのでしょう。こうしてみると、対馬・壱岐・伊豆国に式内社が多いことは「卜部」との関係であることがわかります。
また、彼は「承和(834~848)之初、遣使聘唐」とありますから、かなりの知識人であったのでしょう。

 「伊豆国」は、ウィキペディアには二つあって、一つは、「伊豆国の記載は『記紀六国史には見られず、『扶桑略記』に天武天皇9年(680年)7月に、駿河国から田方郡と賀茂郡の二郡を分割して設けられたとある。現在のような伊豆国の成立は、大宝元年(701年)から和銅3年(710年)にかけて、仲郡(後の那賀郡)と、八邦郡(『和名類聚抄』、不詳)が加えられて以降のことである。」
もう一方は、「天武天皇9年 (680年) 7月に、駿河国から田方郡と賀茂郡の二郡を分割して設けられた。大宝元年 (701年) から和銅3年(710年)までの間に、仲郡(後の那賀郡)が成立し三郡となった。律令法においては遠流の対象地となった。」
どうも、正史にあらわれなく、『扶桑略記』という平安時代の私撰歴史書にのみ書かれている国のようです。
対馬には「伊豆山」があります。「居津山」ともかかれ、「イズ」は「イツク」のことであるとされています。この山のすぐそばに、「海神神社」があります。この神社は、明治四年までは対馬国一宮八幡宮とよばれ、産屋と葬屋があったそうです。この神社の斎祀るところを、伊豆山といい、その前の浜を「居津原」というそうです(永留 久恵 「海神と天神―対馬の風土と神々」 白水社 1988)。この伊豆と伊豆国の伊豆は関係が有るのでしょうか。伊豆国の地には国には「対馬温泉」「対馬の滝」「伊東市立対馬中学校」があります。ただし、この「対馬」は「たじま」と読むようで、中学校のホームページによると名前の由来は、大島に対面した地域という旧地名とあります

卜部雄貞・是雄という名前が、文徳実録、三代実録に見えます。神祇権少副・壹伎氏成の子供で、どうも兄弟のようです。下に、そこにある記事とウィキペデイアの「松尾社家系図」から考えられる関係を注として書きました。

占部雄貞・卜部雄貞
・文徳実録 嘉祥三(850)年九月壬午 「遣宮主正六位下占部雄貞。」
・文徳実録 齊衡二(855)年正月戊子 卜部雄貞等外從五位下。」
・文徳実録 齊衡三(856)九月庚戌 「宮主外從五位下卜部雄貞。神祇少祐正六位上業基等。賜姓占部宿禰。」(注 前掲)
・文徳実録 天安二(858)年四月辛丑 「宮主外從五位下占部宿禰雄貞卒。雄貞者。龜策之倫也。兄弟尤長此術。帝在東宮時爲宮主。踐祚之日。爲大宮主。齊衡二年正月叙外從五位下。雄貞本姓卜部。齊衡三年改姓占部宿禰。性嗜飮酒。遂沈湎卒。時年〓八(48か)。」

    (注) 「松尾社家系図」『続群書類従』巻第181所収に、神祇権少副・壹伎氏成の子とする

卜部是雄・伊伎是雄(本姓卜部)

・三代実録 貞觀五863)年九月  「壹伎嶋石田郡人宮主外從五位下卜部是雄、神祇權少史正七位上卜部業孝等賜姓伊伎宿禰。其先出自雷大臣命也。」

・三代実録 貞觀十四872年四月 「宮主從五位下兼行丹波權掾伊伎宿禰是雄卒。是雄者。壹伎嶋人也。本姓卜部。改爲伊伎。始祖忍見足尼命。始自神代。供龜卜事。厥後子孫傳習祖業。備於卜部。是雄。卜數之道。尤究其要。日者之中。可謂獨歩。嘉祥三年爲東宮々主。皇太子即位之後。轉爲宮主。貞觀五年授外從五位下。十一年叙從五位下。拜丹波權掾。宮主如故。卒時年五十四。」

    (注) 「松尾社家系図」『続群書類従神祇権少副・壹伎氏成の子とする系図
          系図では、雄貞と是雄は兄弟。業基と業孝は親子。 
    (注) なお、續日本後紀 嘉祥二年(八四九)正月壬戌、文徳実録 仁寿二年(852)正月壬午にある大秦公宿禰是雄 は違う人物のようです。

 文徳実録 齊衡三年(856)九月庚戌に、卜部雄貞と業基は「賜姓占部宿禰」とあります。業基」の苗字を何故省略したのは、「卜部雄貞」を先に書いたためで、
たぶん「卜部」だったと考えられます。この頃は「占部」「卜部」ははっきり区別されていなかったのでしょうか。対馬・壱岐出身の「卜部」の力が強くなるに従い、「卜部」と称するようになったと考えられます。


平野博之は、また卜氏の構造として、大宝令の注釈書、「職員令神祇官条集解古記引官員令別記」から、
卜部
同厩 国造直丁 同厩
津嶋上県国造 1 京卜部 8 3 2 1
下県国造 1 京卜部 9 3 2 1
伊岐国造 1 京卜部 7 3 2 1
伊豆国嶋値 1 卜部 2 3 2 1
    斎宮卜部 4 2 2 1
とまとめており、神祇官の卜部は、津嶋、伊岐、伊豆の三つの地域の出身者であったことがわかります。

 そして、延喜式神祇式臨時祭に凡宮主,取卜部堪事者任之。其卜部,取三國卜術優長者。【伊豆五人,壹岐五人,對馬十人。】若取在都之人者,自非卜術絶群,不得輙充。其食,人別日黑米二升,鹽二勺。妻別日米一升五合,鹽一勺五撮。」とあり、卜部の採用には、上記三国のものが、重視されたようです。

卜部の成立は、比較的新しくその前に占部があり、卜部は対馬・壱岐からに発する氏族のようです。伊豆の卜部は、もともとこの地に占部がおり、もともと占部業基という実力者が現れて、卜部平麻呂と名乗り、卜部になったのでしょう。それには、伊豆の地域がウミガメの取れるところだったことが大きく影響していることでしょう。

 平野博之は、「卜」は、明確に亀卜をあらわすとしています。また、古事記・日本書紀の卜・占について、中臣氏の祖先が卜占に携わっていた記事があるが、三国(伊岐・津島・伊豆)卜部がこれに携わっていたというものはなく、対馬・壱岐の卜部氏の祖とは、中臣氏との関係はないとしています。
 彼は結論として、
    ・卜部は全体として、力役、発生時期は七世紀初頭を降らない
    ・卜部の成立は東国の占部よりおくれる。
    ・中臣氏との結びつきも、東国占部より弱い
    ・東国占部の成立は、常陸、下総、武蔵が大和政権の支配下に入ったより後・・・五世紀末から六世紀頃
として
    ・東国占部の成立に際し中央の中臣氏が上級伴造となったのではないか、そして六世紀末から七世紀はじめ(崇峻、推古朝)に対馬・壱岐の卜部に転換
    ・伊豆卜部は、東国占部の遺制として伊豆卜部が残された(確証はないが)
    ・占部から卜部への転換理由を疫病・怪異・宣託 卜占を利用、大陸的な権威ある卜術を、朝廷が独占。
と考えているようです。

関東地方 式内社分布
鹿嶋・香取両神宮の周辺には式内社がない
ここで、中臣氏とウラ部の関係を見る必要があります。どうも中臣氏は新興勢力のようです。
 左の図は、関東地方の式内社の分布図です。延喜式にある三国卜部氏その三国(対馬、壹岐、伊豆)には式内社が密に分布していますが、鹿島・香取神宮周辺にはほとんど分布していません。この近くに、息栖神社があります。この神社は、『日本三代実録』仁和元年(885年)にある「於岐都説神」と考えられ、鹿嶋(正確には、坂戸)、香取両神宮の要の位置にありますが、これも式内社となっていません。
 鹿島・香取両神宮の神威が強すぎて、まわりのものは物申せなく、中央に対し申請することを憚ったのでしょうか。

横田健一「中臣氏と卜部」 日本書紀研究 塙書房 1971年

 本文66ページ、1ページあたり18行、1行当たり52文字、1文字2バイトとすると、1ページ当たりの情報量は、1872バイトあることになります。ある研究によると、日本語で140文字の文章をGoogle翻訳で英訳した結果、平均260文字になったということが、インターネットに載っています。ページ全部が、空白なく文字全体で埋められているとすると、123552バイトになる大変な論文です。
 昔は、これを全部手で書き、紙面上で校正し、活字を植字していたことを考えると大変な労力だったことでしょう。

さて、彼はいろいろ迷った末の結論として
 常陸鹿島の卜部氏について、「孝徳朝から天智朝に常陸が中央政府の眼にクローズアップしてきたことは孝徳、天智両天皇と鎌足との密接な関係があずかって力があるのでろうか。」とし 「中臣氏は常陸の香島社を奉斎する卜部氏から出て、宮廷の雨師的司祭者として立身したのではないかと推定したい。従来鎌足が常陸生まれだという『大鏡』の説はとるにたりないとされてきた。しかし私は鎌足が常陸に生まれたのでなく、大和の高市郡大原に生まれたにせよ、こうした説の生ずる背景に中臣氏が常陸の卜部氏を母胎としていたことがあるのではないかと思う」
とています。

 以前に、谷川健一編「日本の神々 神社と聖地 関東」白水社の中で、大和岩男が、常陸風土記の「天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社、三処を合せて、惣べて香島の天の大神と称ふ」をあげ、坂戸の社の重要性について述べていることを紹介しました。
 この三社の名称、並びから見て「天の大神の社」というのは、大和朝廷の出先といった名前です。「坂戸の社、沼尾の社」は、その前からあった社と考えられます。坂戸社は、そこから夏至の日の日没が筑波山にあることがシミュレーションできるので、これら三社のうちもっとも重要なものだったことが推定できます(なお息栖神社の真北にある神社は、坂戸神社、沼尾神社です)

椿 実 「壱岐・対馬の亀卜と新嘗」 新嘗の研究No.3 学生社 1988

「日本神話は、神祇官に出仕する伊豆・壹岐対馬両島の卜部達によって構想されたものではないか。四時祭式として祭られる順序に従って祈年ー大祓ー新嘗という物語が配列され、対馬の日神・壱岐の月神に、国主と称する亀卜の雷神を鼎立させて、天御柱を廻る太占によって国生みを語り、天岩戸でおこなわれる日神の鎮魂を詳細にかたりうるものは、大宝以来神事に従事した四国の卜部等以外にはないように思われる。」と結論づけています。

小川琢治 「支那歴史地理研究. 続集」 弘文堂書房 1940 版 (国会図書館ディジタルコレクション)

第三篇「阡陌と井田」に、中国古代の成周洛邑(河南省洛陽市)建設について詳しく述べられおり、成周洛邑(現河南省洛陽市付近)建設については、周公旦・召公奭の二人が記録していて、そのひとつ召誥に、宅を卜し、亀卜の吉兆なるを確かめて、はじめて経営に着手するとあり、また同じく洛誥に、周公は亀卜の吉兆なるを確かめ経営を始めたとしています。すなわち、周代には亀卜が非常に重要視されていたことがわかります。

まとめ

この亀卜の術が何かの折、対馬壱岐に伝えられ、顕宗天皇の月神日神の話にあるように、朝鮮半島への使いの帰りにこれを知り、中央にこの技術を持つものを移したことが考えられます。

 新しく権力者になったものは、それまでの勢力の排除が必要になります。そのために最新の技術である亀卜を導入したのでしょう。
 壱岐対馬の亀卜は、それまでの骨卜に代わる新しい技術です。彼らは、ニューテクノクラートとして、朝廷の新しい権力者に迎えいれられ、そこで力を発揮したことと考えられます。中央から見て、西の辺境の地である対馬・壱岐に「卜部」氏の出身地があること、ならびに、東の辺境の地である常陸・下総国に、朝廷から大事に扱われる神社があるということは、単に最西国・東北経営のためばかりでなく、その裏があると考えるのは自然なことです。



関係記事リンク


以下は、横田健一「中臣氏と卜部」日本書紀研究塙書房1971年、を読んだ時の備忘録として、年表風にまとめたものです。
 尊卑分脈の藤原氏の系図上の人物と祖神を中心に議論し、中臣氏は卜部氏からでて、中臣と卜部は同一の祖先としている。中臣氏が常陸の卜部氏からでて中央祭祀に預かるようになったのは、欽明朝か、そのすこし前頃であたのではないか。出身は鹿嶋で、中央にあって壹岐対馬の亀卜を取り入れたと考えているようです。
 
以下にあげるように、古文書にあるものを丹念に拾い上げていく作業には感服させられまいます。

1 「問題の提起-中臣氏の前身は何か-」

・新撰氏族本系帳延喜六(906)年) 
       「黒田大連公生2二男1
                         中臣姓始
                中臣常磐大連公。(一部略)
                右大連始賜2中臣連姓1。・・・・」
   横田解釈:欽明朝(539?-571?): 中臣氏が、中臣連姓を名乗る

・尊卑分脈(南北朝時代から室町時代初期に完成)所載系図
       「始而賜中臣連姓本姓者卜部也」
   横田解釈:それまでは、「本は卜部也」とあって、「卜部氏」と名乗っていたようである。

・新撰姓氏録(弘仁六815)年) 右京神別上・「天神壱岐値 天児屋命九世(十一イ)孫雷大臣後也」
・三代実録  貞觀五863)年九月 「壹伎嶋石田郡人宮主外從五位下卜部是雄、神祇權少史正七位上卜部業孝等賜姓伊伎宿禰。其先出自雷大臣命也」(注 前掲)
   横田解釈:新撰姓氏録の撰上された弘仁六815)年以前に壱岐の卜部で壱岐直姓を賜り、右京に貫せられ、かつ天児屋命ー孫雷大臣を祖としていたものがいたことがわかる。

・続日本紀大宝元年(701)四月丙午。「勅。山背国葛野郡月読神。樺井神。木嶋神。波都賀志神等神稲。自今以後。給2中臣氏1」
   横田解釈:壱岐出身の卜部のつかえる月読社を大宝元(701)年頃には、中臣氏が上にいて支配していた
    
・尊卑分脈(南北朝時代から室町時代初期に完成)系図 
     跨耳命の右注:「雷大臣命正説也」
           下注:「足中彦(仲哀)天皇之朝廷習大兆之道、違2亀卜之術1、賜2姓卜部1、令2供奉其事1
   横田解釈:平安初期には、押見宿禰=忍見足尼が雷大臣であり、卜部の祖であるとともに、中臣氏の祖であるという系図はほぼ成立していた

横田は結論として、「中臣氏と卜部氏との関係を論ずるばあい中臣連賜姓前の氏の名が、律令時代にその統属下にある下級の卜部であったとの伝承を有することは、他の中央有力氏族に例を見な点で」あるとしている。

2 卜部祭祀に関係ある中臣系図上の諸祖神

A 天児屋根命
・日本書紀神代巻下 天孫降臨段第二の一書
「且天兒屋命、主神事之宗源者也、故俾以太占之卜事而奉仕焉」
   横田解釈:天児屋根命が太占をつかさどる起源話であるが、後世の中臣氏が、卜占をつかさどる卜部をひきいた事実をもとにして作られた記事
・古事記 「召天兒屋命・布刀玉命布刀二字以音、下效此而、內拔天香山之眞男鹿之肩拔而」
    横田解釈:鹿の肩骨で太占をしているのは、天児屋命の独占でなく、忌部氏の祖布刀玉命も共にあずかっている。その後に続く話でも、天児屋・布刀玉の二神は同格のはたらきを示すが、どちらかといえば、布刀玉の方がやや優勢なはたらきぶりのように語られている。
記紀の神話全体では、忌部氏系の神々、特に本宗の祖神フトダマ命の活躍は天児屋命に遜色ない。

天児屋根命が、奈良時代において中臣氏、藤原氏によって祀られた記録はなく、また宝亀八(777)年、内大臣藤原良継の病気の時,、鹿嶋社・香取社の位を上げているが、枚岡社(天児屋根命・比売をまつる)には、なにもなかった。これはこの時までは天児屋根命は氏神と見られていなかったのであろうとしている。

B 跨耳命=雷大臣命 
・尊卑分脈  「跨耳命」 右注、「雷大臣命 正説なり」(注 前掲)
                上右注、「而賜卜部姓・・・一部の諸本にある
    横田解釈:而賜卜部姓は何らか中臣=卜部氏族の古伝承によるものではないか

 ・顯宗紀三年 「事代、由是、還京具奏。奉以歌荒樔田歌荒樔田者、在山背國葛野郡也、壹伎縣主先祖押見宿禰、侍祠」
 ・三代実録 貞觀五863)年九月  「壹伎嶋石田郡人宮主外從五位下卜部是雄、神祇權少史正七位上卜部業孝等賜姓伊伎宿禰。其先出自雷大臣命也。」(注 前掲)
 ・三代実録 貞觀十四872年四月 「是雄者。壹伎嶋人也。本姓卜部。改爲伊伎。始祖忍見足尼命。(注 前掲)
    横田解釈:是雄の祖を貞觀十四(872)年に押見とし、五年条に雷大臣命とするからといって、この両者を同一人物とすることは早計
松尾社家系図 「巨狭山命ー雷大臣命ー大小橋命
尊卑分脈    「臣狭山命ー跨耳命ー大小橋命
    横田解釈:雷大臣命=跨耳命。松尾社家系図の中臣烏賊使主は雷大臣命で、尊卑分脈の跨耳命と時代的にはあう。
   顯宗紀三年の「押見宿禰」を「雷大臣」とすることは、時代的に合わない。

・仲哀紀九年春二月 「則皇后詔大臣及中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連曰・・・」
 ・神功皇后紀九年三月 「皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴、喚中臣烏賊津使主爲審神者。因以千繒高繒置琴頭尾、而請曰「先日教天皇者誰神也、願欲知其名。」逮于七日七夜、乃答曰「神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。」亦問之「除是神復有神乎。」答曰「幡荻穗出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也。」問「亦有耶。」答曰「於天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代主神有之也。」問「亦有耶。」答曰「有無之不知焉。」」
 横田解釈:中臣烏賊津連=中臣烏賊津使主

 ・允恭紀七年冬十二月 「時烏賊津使主對言「臣既被天皇命、必召率來矣。若不將來、必罪之。故、返被極刑、寧伏庭而死耳。」仍經七日伏於庭中、與飲食而不湌、密食懷中之糒。於是弟姬以爲、妾因皇后之嫉、既拒天皇命、且亡君之忠臣、是亦妾罪。則從烏賊津使主而來之。到倭春日、食于檪井上、弟姬親賜酒于使主、慰其意。使主、卽日至京、留弟姬於倭直吾子籠之家、復命天皇。天皇大歡之、美烏賊津使主而敦寵焉。」

 ・続日本記天応元年(781)七月 「右京人正六位上栗原勝子公言。子公等之先祖伊賀都臣。是中臣遠祖天御中主命廿世之孫。意美佐夜麻之子也。伊賀郡臣。神功皇后御世。使於百済。便娶彼土女。生二男。名曰本大臣。小大臣。遥尋本系。帰於聖朝。時賜美濃国不破郡栗原地。以居焉。厥後因居命氏。遂負栗原勝姓。伏乞。蒙賜中臣栗原連。於是子公等男女十八人依請改賜之。」

  横田結論:イカツノオミ=雷大臣命
「奈良朝、平安初期にはかなり広くその子孫と称するものが各地に居て、その神功朝における活動の伝説を信じていたことがわかるのである。その活動というものには司祭者的なそれが濃厚であった。特に尊卑分脈『』の跨耳命すなわち雷大臣が大兆の道を習い亀卜の術に達し、卜部の性を賜い、そのことを供奉したとある伝説は、後代の中臣氏や壹岐卜部氏などが、その亀卜の術の創始者として頭に浮かべ、その神話像を凝縮し尊崇していた存在であった。その百済に使いしたといい、壹岐に子孫を残したというのも、亀卜の術が大陸から伝来した経路を暗示するがごとくである。」としています。

C 臣狭山命 「中臣氏における『臣の問題」
・尊卑分脈  臣陜山命(右注 巨(か)山 正説) 「臣陜山」の訓=>「オホンサヤマノ」
  その他、中臣氏系図に「臣」ノつくもの多く「、古訓に「オン」
・常陸風土記香島郡 「中臣巨狭山命」
続日本紀天応元年(781)七月癸酉 「右京人正六位上栗原勝子公言。子公等之先祖伊賀都臣。是中臣遠祖天御中主命廿世之孫。意美佐夜麻之子也。」

結論:その祖先に多く「臣(オミ)」字をつけたものがあった。それは、「烏賊津使主」のような「オミ」があった。「使主」は、帰化人系が名乗ることが多い。

鹿嶋神がタケミカズチの神、香取をフツヌシとする記事は、記紀並びに風土記にはない
  続日本後紀:《承和三年(836)五月丁未。奉授下総國香取郡從三位伊波比主命正二位。常陸國鹿嶋郡從二位勳一等建御賀豆智命正二位。

風土記にある臣狭山命:神の海の彼方からの送迎の祭りの始原の司祭者が「臣狭山命」
 したがって、「臣狭山命」は鹿嶋神につかえるもの


D 国摩大鹿嶋命と探湯主命
・皇太神宮儀式帳 「大神宮禰宜、荒木田神主等遠祖、国摩大鹿嶋命の孫、天見通命を禰宜として定め」・・・横田注:国摩大鹿嶋命が荒木田系図に載っていることだけを確かめれば良い。この神が中臣氏の系図に入ったのは、奈良朝ごろまでさかのぼれる(筆者注:尊卑分脈に天見通(下注として「神宮内宮祠官荒木田上祖」)臣陜山が親で、跨耳命と並ぶ)

・尊卑分脈 国摩大鹿嶋命は臣狭山命の親
 ・垂仁紀廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠祖武渟川別・和珥臣遠祖彥國葺・中臣連遠祖大鹿嶋・物部連遠祖十千根・大伴連遠祖武日、・・・」
  横田注:この記事は、上記腰の活躍した時代の反映で「大宝元ー三(701-704)年の時代、大鹿嶋が中臣氏の系図に入ったのは、恐らく文武(697-707)以前
 ・垂仁紀廿五年春三月 一云、・・・・天皇、聞是言、則仰中臣連祖探湯主而卜之、
  横田注:尊卑分脈にはないもの。卜部である中臣の祖としてはが探湯主命ふさわしい
・伊勢国風土記逸文 「倭姫命遣中臣大鹿嶋命、伊勢大若子命、忌部玉櫛命」
横田はこれについては触れていない

 D 天種子命・天押雲命
 ・尊卑分脈 天多禰伎命 三代目:天押雲命 二代目

・神武紀其年冬十月丁巳朔辛酉、「天種子命、是中臣氏之遠祖也。」
  横田注:「古事記」にはなく、また前後との関係も薄く、後代中臣氏が作った話のようである。
・中臣寿詞  「中臣の遠祖天児屋根命 皇御孫尊の御前に 仕へ奉りて 天忍雲根神を天の二上に上せ奉りて 神漏岐神漏美の命の前に 受給申に 皇御孫尊の御膳都水は 宇都志國の水を 天都水と成して立奉らむと申せと 事教へ給ひしに依りて 天忍雲根神 天の浮雲に乗りて 天の二上に上り坐まして 神漏岐神漏美の命の前まへに申せば 天の玉櫛を事依さし奉りて 此玉櫛を刺立て 夕日より朝日照るに至るまで 天都詔戸の太諸刀言を以て告れ」
  横田注:中臣氏が「天神寿詞」を大嘗祭で奏上するようになってから造作された神であろう天押雲命」とは、雲を押す=支配する神の意味。と同時に雲が雨水となることから水を支配する神の象徴。
中臣氏が、かかる水を支配する祖神の神話を持つことはそれ以前からあったことかもしれない、としている。

系図上は、中臣と卜部は同一の祖先

3 中臣氏と卜部との職能上の関係
A 大祓
 ・「神祇令」 凡六月十二月晦日大祓者。中臣上御祓麻、東西文部上祓刀讀祓詞、訖百官男女。聚集祓所中臣宣祓詞、ト部為解除。
   横田注:中臣が祓詞を宣し、卜部が解除を行った。大祓こそ、中臣氏の行う祭事で最も代表的なもの
 ・日本後紀 大同元年(806)八月庚午 先是中臣忌部兩氏各有相訴。中臣氏云。忌部者。本造幣帛。不申祝詞。然則不可以忌部氏爲幣帛使。忌部氏云。奉幣祈祷。是忌部之職也。然則以忌部氏爲幣帛使。以中臣氏可預祓使。彼此相論。各有所據。是日勅命。據日本書紀。天照大神閇天磐戸之時。中臣連遠祖天兒屋命。忌部遠祖太玉命。掘天香山之五百箇眞坂樹。而上枝懸八坂瓊之五百箇御統。中枝懸八咫鏡。下枝懸青和幣白和幣。相與致祈祷者。然則至祈祷事。中臣忌部並可相預。又神祇令云。其祈年月次祭者。中臣宣祝詞。忌部班幣帛。踐祚之日。中臣奏天神壽詞。忌部上神璽鏡劔。六月十二月晦日大祓者。中臣上御祓麻。東西文部上祓刀。讀祓詞訖。中臣宣祓詞。常祀之外。須向諸社供幣帛者。皆取五位以上卜食者充之。宜常祀之外。奉幣之使。取用兩氏。必當相半。自餘之事。專依令條。


   横田注:中臣・忌部の職掌・所管についての争いごとの裁定。祓えは忌部氏側になく、中臣氏の最も顕著、独自の機能
  

大祓の行事 律令時代以前・律令時代にも、中臣氏の独占ではなかった。地方では、天武天皇の始世までは、国造の責任において行われる行事であった。

B 天神寿詞の奏上
・「神祇令」 凡踐祚之日。中臣奏天神之壽詞、忌部上神璽之鏡釼。

・「延喜式」 凡踐祚大嘗。七月以前即位者。當年行事。八月以後者。明年行事。〈此據受讓即位。非謂諒闇登極。〉其年預令所司ト定悠紀主基國郡。奏可訖即下知。依例准擬。又定檢校行事。

横田注:悠紀主基の田は中臣氏率いる四国の卜部氏が卜事によって、選び定めたものである。そこに中臣氏と卜部の大きな職能があった。

C 鎮火祭と道饗祭
宮京城の四隅で行われる祭りであり、大陸的な「にほい」がするとし卜部の職能には、亀卜をはじめ大陸的な影響を考えることができようとしている。。祟る神を卜でもって探り当て、これを防ぐ司祭者としての卜部、その発展した上級神官としての中臣氏があるといえようとしている。

4  常陸鹿島の卜部氏

・常陸風土紀
 総記  :孝徳朝(645-654)  「高向臣・中臣幡織田連等を遣して、坂より東の国を惣べ領らしむ。」
 行方郡 :孝徳朝癸丑年(653) 「・・・惣領高向臣の大夫・中臣幡織田連等に請ひて・・・」
 香島郡 :孝徳朝乙酉年(649) 「大乙上中臣■子、大乙下中臣部兎子等、惣領高向の大夫に請いて、・・・、別て神の郡を置きき、其処に有ませる所の天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社、三処合せて、惣べて香島の天の大神と称う」
 香島郡 :「神の社の周匝は、卜氏の住む所なり」 横田注:この卜氏は、神戸なのか神官なのか、それとも更に下級の神奴・神賎か
 久慈郡 :天智朝(626-672) 「藤原の内大臣の封戸をみに遣されし軽直麻呂、堤を造きて池を成りき」
   横田: 常陸香島郡に有位土着豪族の有力者で、中臣ないし中臣部を名のるものが、孝徳朝にいた事、そしておそらく香島社の信徒であったと考えられることは注意される。

・続日本記 《天平十八年(746)三月丙子 常陸国鹿嶋郡中臣部廿煙。占部五煙。賜中臣鹿嶋連之姓。 横田:この占部は恐らく神戸であろう。


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