「アマテラス」の全国分布(12)で、北緯34度30分線上に重要な都、神社、信仰の対象となっている山があることを書きました。永留久恵著「古代日本と対馬」(大和書房 1985)に、「記紀にある神武天皇の都も、現在の奈良県橿原市にある橿原神宮とすれば、ここは、まさにその緯度上にある」ことが紹介されています。
 神武天皇は『古事記』では神倭伊波礼琵古命、『日本書紀』では神日本磐余彦尊と呼ばれています。その名前の中心になるものは、「伊波礼」「磐余」、すなわち「いわれ」ということになります。

六合之中心

日本書紀によると、神日本磐余彦尊は、「鹽土老翁、曰『東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎」と、東の美しい国に都を作ろうと、日向の地を出発し、六合(天地東南西北)の中心である饒速日のいる大和の国をめざし東に向かい、河内国白肩津から上陸して、内陸を目指しますが、長脛彦の抵抗にあい上陸できず、南回りに宇陀をまわり、兄磯城のいる「いわれ」の地を、だまし討ち・相手仲間の切り崩しによる裏切りを誘うなどさまざまな策略を用いて、この地の賊をを平らげて、「觀夫畝傍山東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之」としてこの地に大和王朝をを立てたとしています。「畝傍山東南橿原地」は、藤原宮を意識しているものと考えています。藤原宮は、畝傍山の東北にあります。その山の東北といってしまっては、それがばれてしまうので、東南とかいたのでしょう。または、その東南に当たる所は、飛鳥があるので、飛鳥の地を意識したのかもしれません。
 しかしなぜ、その名前に、宮を作った地のそれでなく「いわれ」の名前をつけたのかは、よく理解できません。宮をつくったあたりまでが「いわれ」の範囲であったのかもしれません。古代のことですから、地域名の範囲は、それほど厳密ではなかったことでしょう。いずれにしろよくわかりません。
 紀には、さらに「兄磯城が軍有りて、磐余の邑に布き満めり。賊虜の拠る所は、皆是要害の地なり」、「夫れ磐余の地、旧の名は片居、片居、此には伽哆韋と云ふ。亦は片立と曰ふ、片立、此には伽哆哆知と云ふ」という記述があります。

イワレの範囲

直木孝次郎著「飛鳥-光と影-」(吉川弘文館 2000)、「飛鳥の宮々」・「神武天皇の称号磐余彦について」の項には、「いわれ」について詳しくかかれていますが、そこでは、「磐余が天の香具山の東方ないし東北東の地域、換言すると現在の桜井市西部から橿原市東南部、あるいは古代・中世の十市郡西部から高市郡東北部にかけての地域である」としています。
 また、インターネット上に、和田 萃「磐余の諸宮とその時代」
(http://www.asukabito.or.jp/taishi/123%E5%8F%B7%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8.pdf)、および、千田 稔「古代王権論と文芸者の射程-磐余について(http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN1601.pdf)、という論文が見つかりました。
 前者は、「公益財団法人 古都飛鳥保存財団」のホームページに載っているものです。ここには磐余に関する諸宮、記述が紹介され、「磐余の範囲を厳密に画定することは難しいが、おおよそ寺川左岸の香具山東北麓を指す。目下の私案にすぎないが、より具体的には、寺川上流の倉橋付近から、東光寺山、桜井市戒重の幸玉橋、耳成山、香具山を順に結んだ範囲内としておきたい」としています。そこでは、古代の都の位置について「プレ横大路」の意義を強調しています。
 後者の掲載雑誌は、国際日本文化研究センターの「日本研究」(1989年角川学芸出版)というもののようです。ここでは、「磐余は石村あるいは石寸とも表記されるが語義を正しく示しているのは、石村であろう。つまり岩山が群がっているところという意味である」としています。そして、その範囲を、「今までいわれてきたとおり桜井市西南部でよいと思うが、阿部山や若桜神社が坐す小山、あるいは鳥見山などの丘陵郡のある地理的空間に由来する地名ではないか」とし、阿部山や若桜神社の坐す小山、あるいは鳥見山などの丘陵郡のある地理的空間に由来する地名ではないか」としています。そこでは、「この阿部山と若桜神社の小山の北を帯のように寺川が流れている・・・古代の宮の立地にかなうものである」としています。
 また、紀に「・・・すなわち靈畤を鳥見山の中に立て、その地を号けて、上小野榛原・下小野榛原と曰ひ、用いて皇祖の天神を祭りたまふ」という記事の「靈畤の地、上小野榛原・下小野榛原」を桜井市鳥見山付近としています。この山の麓には「外山(トビ)」という大字(江戸時代は式上郡外山村)があるし、式内社等弥神社もありますので、靈畤の地を現在の桜井市大字外山とすることにはおおかたの方が賛成しているようです。千田によると、社伝によるとして、等弥神社旧社地は、鳥見山山中にあったが天永三(1112)年に山崩れで、現在の社地に移ったとのことです。彼は、先に上げた紀の記事の直前にある「郊祀」という言葉を重視し、南のそれを鳥見山、北のそれをその北にある小字「式島」にもとめています。「式島」は、現在桜井市立城島小学校としてその名をとどめています。また、欽明天皇の磯城嶋金刺宮のあったところは、このあたりと考えられています。

古代の地形を見るには、現在の地図より古い地図で

上記インターネット上の二論文には、国土地理院発行の地形図が載せられていますが、それは最新のもので、住宅開発、道路建設などで地形がよみにくくなっている嫌いがあります。此処では、明治41年測図の原縮尺ニ万分の一地図(入手方法は下記)を土地用途別に着色したものと、その地図に国土地理院の公開している5mメッシュの標高データによる彩段図をつくり、重ねたものを載せました(フリーソフト、カシミール3Dによる)
 こうすることにより地形が読みやすくなります。当時は、現在と違って、空中写真などという便利なものはありませんから、山の形には大きな違いがみられ、またそこに掲げられている地物の情報の精度も落ちるものと考えなければなりませんが、古代を研究しようとする人には欠かせない資料であることは間違いありません。これ等の地図から、奈良国立文化財研究所が吉備池廃寺と名付け、百済大寺の跡に違いないと発表した古代寺院跡とみられるところにある池が、地形のトレンドと合わないことがよくわかります。何かの構築物がありその基礎の材料を掘り起こした時にできたくぼみを拡幅していったようで、無理無理、人工的に掘られた感じがします。
 「いわれ」の範囲については、三者とも広く取るか狭く取るかの違いはあってもおおよそのところでは一致しています。上図では、そのおおよその地域を、白縁の楕円で示しました。鳥見山と天香久山に挟まれる範囲、南東部が丘陵・山地、北東部は、起伏の少ない比較的高い所があって居住には地形的な利点の多いところだったと考えられます。もしかするとこれが「片居」「片立」なのかもしれません。
 阿部山のある丘陵地のほか、米川に沿った北西-南東トレンドを持った高まりが見られます。このトレンド上に集落・畑地が点在し、先に述べた吉備池廃寺跡、また倉梯麻呂が創建したとされる崇敬寺(安倍寺)跡などがあります。一方阿部山の西にそって、南北トレンドを持つ高まりがあり、その高まりと寺川と交差するところに、桜井市戒重の八幡神社があます。この辺りが譯語田幸玉宮想定地とされています。そこには「和佐田」という小字があり、明治以前は「他田(おさだ)」とよばれていたそうです。

 この地は、三輪山と鳥見山の間の初瀬川が山間部から平野にでる所に位置し、大和平野からみれば、東方への出入口にあたるところで、軍事、通商の観点から見て非常に重要なことはいうまでもありません。万葉集に、「海石榴市の八十衢」とよまれた古代の市の場所もこの辺りに想定されています。

「いわれ」関係地 

下に「いわれ」関係地をあげておきました。なお上記地図の宮想定地は、目安として、巷に噂されているもので、根拠は薄弱です。

「いわれ」関係
名称出典天皇日本書紀地名
若櫻宮神功皇后磐余
盤余稚桜宮(伊波礼の若櫻宮)紀(履中磐余
甕栗宮(伊波礼之甕栗宮)紀(清寧盤余甕栗
盤余玉穂宮(伊波礼之玉穂宮)紀(継体磐余玉穗
磯城嶋金刺宮(師木嶋大宮)紀(欽明磯城郡磯城嶋
幸玉宮(他田宮)*紀(敏達 
 *天寿国繍帳に乎沙多宮・『霊異記』上巻の第三縁や『帝王編年記』に磐余譯語田幸玉宮
池辺双槻宮(池辺宮)紀(用明磐余
石寸山口神社延喜式  
磐余の池万葉集  


大和三山鳥見山位置
山名緯度経度
鳥見山34.50498135.86180
香具山34.49549135.81817
畝傍山34.49250135.78472
耳成山34.51472135.80528




関係記事リンク



明治2万分の1地形図入手方法

埼玉大学 谷謙二研究室のホームページ(http://ktgis.net/lab/)から入手できます。時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ2」をダウンロードして、これを開きます。
 狭い範囲であれば、画面の左の欄に「出力」のボタンから画面に出ている部分を取得できます。全テータを取得するには、「データ取得」というボタンがあるのでそれをクリックして、あとは指示に従ってすすむと取得できます。

 明治の2万分の1地形図は、一葉東西0.02度、南北0.01333度で、これを、グーグルアースには地形に合わせて、上記大きさにイメージオーバーレイとして貼り付けるのがよいようです。大量に貼り付けるには、エクセルのVBAなどを使って、テキスト文でKMLファイルを作ります。当時の測地系はTokyo Datum、投影法は多面体図法だと思いますが、グーグルアースの写真となかなかうまく合いません。それほど厳密に考える必要はないので、地形であわせて貼り付けるのがよいかとおもいます。
 前にも書きましたが、国は古い地図を公開するのをためらっているようです。公開するには、国会を通さなければならず面倒くさいからでしょう(2015年1月25日現在)。最新の地図は、ホームページから見ることができますし、、グーグルアース上からも、ネット経由で閲ることができますので非常に便利です。旧版の地図を手に入れるには、東京では九段の測量部に行き、旧版地図画像をコンピュータでみて、必要なものの謄本を購入することになります。ですから、インターネットで公開することは技術的には、いまは何も問題はないはずなのですが。
 なお、この明治に発行された迅速図、ならびにこの2万分の1の地形図の図歴は、以前は国土地理院のホームページにあったような記憶があるのですが、最近はないようです。法律では、「国土地理院の長は、基本測量の測量成果及び測量記録を保管し、国土交通省令で定めるところにより、これを一般の閲覧に供しなければならない」となっています。「一般の閲覧に供」することは、昔なら、地方測量部においてあるから見に来い、ですんだのでしょうが、このインターネットの時代での「一般の閲覧に供」は違うと思います。税金を使って作成された国民の財産である測量成果は、すみやかにインターネット上に公開してほしいと願うのは私だけでしょうか。

奈良県の小字

上記記事のにある小字他の地名は、奈良女子大学古代学学術センターのホームページ(http://www.nara-wu.ac.jp/kodai/gis/koaza/koaza_johogen.html)から探すことができます。ただ、よくあることですが、検索のプログラムが作りすぎで使いづらいのが難点です。使うのは研究者好事家なのですから、データを一括ダウンロードできるようなことが出来るのが一番良いのですが。しかし、探しているとなんとか目的のものを見つけることができます。
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