延喜式神名帳にある社のデータベースが完成しました。比定社は、ウィキペディア、「玄武子の記憶」「阜嵐健 延喜式神社の調査」「神奈備にようこそ」の各サイトを参照して作りました。ウィキペディア以外のサイトは、それぞれ現地調査に基づいて書かれているものです。よくもまあ、ここまで調べれれたと感心するサイトばかりです。

 式内社とは、延喜式の神名帳にのる神社です。
 延喜式の「式」とは、虎尾俊哉著 「延喜式 」吉川弘文館 新装版 1995 (日本歴史叢書)によると、「・・・もうすこし限定的な意味を持っている。すなわち『律』『令』『格』というような他の法典とは区別され、しかもこれらの法典とともに一連の体系的な法典群を形作っている特定の法典を指す言葉なのである」(p1)とあり、「一般的にいって、律と令とは国家の根本法・原則法であり、格と式とはその補充法・例外法というべきものであった」(p5)とかかれています。ということで素人の自分としては、「延喜式」を延喜の時代に出来た細則みたいなものだと一応理解しましたが、間違っている可能性があります。この式は、延喜五(905)年、左大臣藤原時平に対して編纂の勅命が下り、延長五(927)年に完成したものだそうです。しからば、その式にある神名帳とは何かということで調べていくと、延喜式第9巻、10巻を指すそうで、「式内社」とは、そこに挙げられている神社ということになるのでしょう。上記書では、「要するに当時の官社の国郡別一覧表に他ならない」といっています。これ等官社が、その他の神社と区別されるのは、祈年祭にあたって国家から幣帛をを受けるかどうかの差だそうです。幣帛とは、広辞苑によると、「①神に奉献する物の総称②進物または礼物の総称」とありますから、国家の下についた神社ということになります。お上の庇護のもとに走りたがるのは、古今東西問わないもので、多くの神社が自薦・他薦により吾こそはと、名乗りをあげたことでしょう。
 当時存在していたことが知られる有力な神社である、讃岐の金比羅神宮、備前の吉備津彦神社、備後の吉備津神社、紀伊の熊野那智大社などはこの中に入っていません。

 式内社の分布密度の多い所は、 山城、大和、河内などの畿内地方、伊勢・尾張地方、東海道は遠江から伊豆にかけて密度濃く、その太平洋岸延長と地域である関東平野では比較的まばらですが、山寄りの地域に集中して、上野、下野国の南縁部に沿った地域にまとまってみられます。東北侵略の起点となった、鹿島、香取神宮の近くにはそれほど大きなく、多く見られるのは水戸を中心とした山沿い地方です。
 ここから北、関東から東北のかけて太平洋岸沿いに多くの式内社がみられます。海岸部にある平野に集中して、いわき市、相馬市、仙台平野に多く分布し、陸奥の国の式内社には、鹿島のつく式内社が八、香取のつくそれが二社見られます。東北地方の式内社は、太平洋側の陸奥国に100座100社あるのにくらべ、日本海側の出羽国には9座9社と対照的です。それも内陸平野部、横手・山形盆地にはすくなく、その北の横手盆地は3社(副川神社の比定社を秋田県大仙市神宮寺落貝の嶽六所神社にした場合)見られますが、丘陵地で雄物川沿いです。

 日本海側では、石見から能登にかけての地域に非常に密度濃く分布していてます。東京中心に物事を考える習慣のついた自分の意識には、ほとんどのぼってこない対馬・壱岐・隠岐など日本海に浮かぶ島に、多くの式内社が存在していることは驚きです。能登半島・佐渡もそれらの島のひとつとしてみるとみると日本海を行き来する古代の人々の交流圏があったのでしょう。壱岐対馬に式内社が多いのは、日本書紀の記事に見られるように当時は中央とのつながりの強い地方であったことによるのでしょう。近江国の式内社も、北より琵琶湖北岸地方に密度濃く分布しているのが特徴でです。対馬に関していえば、上に擧げた虎尾俊哉の著書に、雑式の部の2例が紹介されています。ということで、これを調べてみると、その雑式には「對馬嶋」の条が四カ所あります。昔から重要視されていた島なのでしょう。

 瀬戸内海沿岸地方は、古代における主要航路であった割には、その分布はそれほど多くありません。大和に近い淡路、阿波、讃岐、播磨、備前中後国には比較的密度高く分布していますが、安芸の国以西はその分布がすくなく、さらに九州に入ると筑前筑後の平野を除き、それほどの密度の分布はしていません。この地方は神話の世界に多く登場するのに、式内社が少ないのは、何か理由があるのでしょうか。
 しかし、そのすくない中で、肥前国松浦郡の志志伎神社、薩摩国穎娃郡の枚聞神社、大隅国馭謨郡の益救神社の位置は注目されます。
志志伎神社は、九州の平戸島のに志志伎神社に比定されています。この神社は、インターネット上の情報を総合すると、上宮(志々伎山山頂)・中宮・邊都宮(里宮・伝景行天皇行宮跡)・沖津宮(伝十城別王武器庫跡・十城別王御陵墓)の四カ所からなり、現在の地図にあるものはこの中宮に当たるとのことです。上宮のある志志伎山は写真で見ると特異な形をしており、これがこの付近を航海する者にとっての目印の山であったことは容易に想像することが出来ます。肥前国風土記の値嘉の郷の項に、「同じき(景行天皇)、巡り幸しし時に、志式嶋の行宮に在して、西の海を御覧したまふ」とあり、その志式嶋は現在の平戸市志々伎町に比定され、この志志伎神社は、その近くにあります。さらに、その先の西の海には八十あまりの島があり、その中の二つの島に土蜘蛛が住み、その他は無人であったことが述べられています。
 また、この郷は、そこに「遣唐の使いは、この停より発ちて、美袮良久の埼すなわち川原浦の西の埼これなり、に到り、ここより発船して、西に渡る」とあり、万葉集にも山上億良の「好去好来の歌」にもうたわれていることから、大陸に渡るときの西の玄関口であったことがわかります。こういったことから、ここが北九州の密集地帯から離れて、ぽつんと一つ式内社に選ばれたのでしょう。また、古事記の神話の中にも「知訶島」とあります。
 つぎの枚聞神社は、鹿児島県指宿市にある枚聞神社が比定されています。この神社のご神体は開聞岳で、交通・航海の安全や、漁業守護の神として崇敬が寄せられているとのことです(指宿市観光協会HPより)。後鳥羽天皇の時代から慶長四(1599)年の間にかけては、和多都美神社と呼ばれていたそうです(谷川健一篇 日本の神々1 九州 藤井重壽執筆)。また、この社には、琉球王国名の奉納額が残されているそうです。いずれにしろ、当然その開門岳が、太古の昔からそこの航海民にとって、目印の山として重要であったことでしょう。
 さらに、大隅国馭謨郡の式内社益救神社は、屋久島の宮之浦にある同名の神社に比定されています。益救は、「ヤク」ないしは「マスクヒ」と訓まれるようです。宮之浦岳山頂に奥宮があり、これもこの付近の航海民とって重要な目印であったことでしょう。日本書紀の舒明天皇元年(629年)4月1日の記事に、「遣田部連闕名於掖玖」とあり、続日本記に「勅大宰府曰。去天平七年。故大弐従四位下小野朝臣老、遣高橋連牛養於南嶋。樹牌。而其牌経年、今既朽壊。宜依旧修樹。毎牌、顕著嶋名并泊船処。有水処。及去就国行程。遥見嶋名。令漂著之船知所帰向。」、延喜式の雑式に「凡太宰於南嶋樹牌具顯著嶋名。及泊船處,有水處,并去就國行程,遙見嶋名,仍令漂著船人必知有所歸向」とあり、屋久島が、当時から大和政権にとって遣唐使などの南、西の地域の航海に備えての重要なところだったことが知られます。

 このように、中央から見ての最南端・最西端に、はなれて式内社があることは興味深いことです。当時の大和政権にとって、朝鮮半島、中国大陸が、経済・文化にとって重要な地域であるとともに脅威の地であることは現在でも同じことです。当時の中央の政府の意識の中には、常に西方のこれ等の地域があり、このような場所にある神社が式内社という官社として選ばれたことは容易に想像がつきます。

 日本の最西の五島列島ならびに沖縄には、古代大和政権を引きついだ今の日本国の支配下にありますが、式内社はありません。沖縄はもともと琉球王国であったところで、沖縄の言葉には「やまとんちゅう」「うちなんちゅう」とはっきり沖縄の人間と大和の人の区別する言葉がありますし、全国神社名鑑刊行会史学センター 編纂「全国神社名鑑 」に載る神社本庁に属する社数も、沖縄本島は11社で、熊毛郡(主に種子島と屋久島の2島からなる)36社、大島郡(主として奄美群島)28社に比して非常に少ないことがわかります。また、五島列島は、昔耽羅国という独立国であった済州島に近く、先に上げた肥前国風土記に「此の嶋の白水郎、容貌は隼人に似て、恒に騎射を好み、その言葉は、俗人と異なり」とありますから、人種的にも文化的にも大和国とは違っていたのではないかなどと想像してしまいます。

式内社分布(1) 式内社分布(2) 式内社分布(3)

(図はすべて、クリックすることにより大きく見ることができます)

ダウンロード

式内社分布図:KML(139KB )
式内社DB:   XLS(11,737KB)


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